あおむけになって本を読んでいたら

嬉しくなった。

お腹をうえにして首を持ちあげ、いるかは、ゆっくり背泳ぎをした。
「ああ。星がいっぱい。••••••なんてしずかなんだろう。さびしいくらいだ」
いるかは、独りごとをいった。

ー『ともだちは海のにおい』ー工藤直子

背泳ぎをしているいるかは、
海の上で あおむけ。
そろそろ寝ようかという僕は、
ベッドの上で あおむけ。

なんか、少しだけ、
いるかの目線。
いるかの気持ち。

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「秋の砂」

「秋の砂」――木坂涼――

そんなに
いいことはないよ と

海に
言ってみる

海が
波のさきを
砂浜にひっかけ
ひっかけ
陸へ
あがりたそうにしているから

わたしは
足あとを
波のさきにのこした
ひんやり湿った
秋の砂に

海に嫌みを言ったあとの
苦笑で
すこし軽くなった足あとを

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「そんなに いいことはないよ」
からはじまる静かな音楽。

「砂浜にひっかけ ひっかけ 陸へ あがりたそうにしているから」
ここを読むときの、ちょっとした ひっかかり が好き。
波が寄せて、ひいて、また寄せる、あのちょっともどかしい間隔。
その感覚がこのひっかかりに重なる。

それに、このひっかかりのリズムが、
「わたし」の心にひっかかっている何かにも重なる。

次の連、
「波のさき」に足あとをつける、ちょっとした遊び心がちょっかいをかけるみたいで素敵。
「ひんやり湿った 秋の砂」という言葉から裸足のイメージも浮かんで、
その次の連と合わせて
スゥーっと肩の力が抜けて、ラクになってるかんじがすごく伝わってくる。

元気がでるわけじゃない。
前を向こうと思うわけでもない。
この詩を読むことは
深呼吸することみたい。
この詩は、そういう静かでリラックスしたところが好き。

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「そんなに いいことはないよ」
この言葉は、海に向けた言葉だけど、
もしかしたら「わたし」自身への言葉にもなっているのかもしれない。

何か、こころにつっかえがあって、
「わたし」は秋の海にきた。
海が「砂浜にひっかけ ひっかけ 陸へ あがろうとしている」のを見て、
自分も、どこか別のどこかへ
ひっかけひっかけあがろうとしていると気付いたのかも。

すると、
海の姿と自分の姿が重なって
海に言ったはずの
「そんなに いいことはないよ」
という言葉は、
自分に返ってくることになる。

そして「わたし」は「苦笑」して、
スゥーっと力が抜けていく。

そんなふうに読んでしまった。
でもここでは自由に読みたいから
よしとしよう。

まぁ意味はそんな重要じゃない。
とにかく、この詩のみずみずしさ。静けさ。軽さ。
それが好きだなぁー。

それにしても、
――木坂涼――
この詩にピッタリな名前だ。

『朝の時間割』

晩ご飯。
ロジの木に初めて行った。

ブックカフェ、と呼んでいいのかな。
料理関係の本がほとんど、というか全部。笑
料理大好きなんだな、とすぐ分かる。
店主さん、あ、なるほど。
このお店にいそうな、優しい、温かいお方!母さんくらいの年かな。
「お好きな本、読んでくださいね。」
と柔らかい表情でおっしゃって
心がほぐれた。
素敵な年の重ね方をしてこられた方なんだということがすごく伝わってきた。

ロジの木は注文をうけてから料理をつくりはじめる。
つまり、読書の時間たっぷりめ。
本棚をゆっくり眺められる。
椅子に座ったまま、
手を伸ばすと本が取れる。
これ、すごくいいと思う。
小さなお店ならではの嬉しさ。

レシピ本は読まないけど、エッセイなら面白そう。
おっ、『朝の時間割』。

朝の時間に憧れがあるからなー
18人の「朝の時間割」を紹介していると!
気になる。

全員分は読めないから直感で一人選ぶ。
こういうの楽しい。

挿花家 谷匡子
「早起きがくれる、私だけの時間」

この中に素敵な言葉があった。

「そして何より、朝を大切にするのは大好きな花を、電気の下ではなく、自然の光を通して感じたいからなんです。」

挿花家が感じる朝の魅力。
こういう文章に出会うと、自分の感性の領域が広がって、世界がもっとカラフルになる。

この文章を読んで、
前に読んだデザイナー深澤直人さんのエッセイを思い出した。

〜ものの「形」ではなく、「姿」をデザインする〜
もの単独ではなくて、ものの周囲の環境まで含めた「姿」をイメージしながらデザインするという主旨だったと記憶してる。

谷匡子さんは、
朝の自然光を浴びる花の「姿」を感じたいと言っている。

姿の美しさを感じとっていきたい!

ロジの木素敵だったー。
料理ゆっくり。
時間たっぷり。
そのぶん、
ごはんあったか。
読書のんびり。
心ゆったり。

急がないでいい日はここに来たい。
金曜日はロジの木でゆっくりご飯が定番になりそうだ。

あ、料理のこと何も書いてなかった。笑
すごくヘルシーで美味しかった。
ほんとに。

さて、寝よう。
おやすみなさい。

「キツツキと雨」

まったり。ほのぼの。

スロー、べりースロー。

クスっ さむたいむず。


役所広司と小栗旬の演技が素晴らしい。

繊細なハートの動きをかすかな表情で

ひしひしと伝えてくる演技に感動した。

小栗旬演じる内気で弱気な25歳の青年映画監督が

かすかに笑うとき、

自分の意見を表明するとき、

なぜかすごく嬉しくて微笑んだ。


役所広司演じる木こり(?)が、

たまたま映画撮影部隊を手伝って、自分もゾンビ役で映画に出演するようになって、

演技が楽しくなって、

隠しきれない喜びを表現しているときは

ほんとこのおじさん好きになった。

しかも、それを他人に知られるのはやっぱり恥ずかしくて

なんとか隠そうとしているのも可愛い。

そして、青年映画監督が必死で頑張ってて

自分もなんとか力になりたいと奔走する姿も心を打つ。


ふたりが演じる登場人物はどちらも、

なかなか感情を表に出さない人間という面で共通していると思う。

だからこそ、ずっと2人の表情を見てしまう。

2人の心の動きの機微が気になってしょーがなくなる。

それを役所広司と小栗旬は絶妙に表現していると思う。

そしてそれに触れて、こちらの胸が熱くなる。


ああ、ここまで書いてよく分かった。

この映画はゆったり、まったり、スローだからこそ

大事なことがよく伝わる。

見始めてすぐ、これは退屈そうな映画だと感じたのに、

なぜか中断も早送りもしなかった。

頭では退屈なのに、不思議と夢中になった。

やっぱりそれは、2人の微妙な心の動きを見逃したくなかったんだろうと思う。

うん、静かに胸が熱くなる素敵な映画だった。

「おおかみこどもの雨と雪」

感動して胸が熱い。


人に知られたくない秘密を抱えて生きていく苦しさと

それを打ち明ける勇気と受け容れてくれたときの喜び。

そしてなんといっても、

その苦しさを理解してあげられる優しさに胸が熱くなった。

この映画では、その秘密は

「オオカミの血が入った人間」であることなんだけど、

現実世界でも、特にマイノリティーとされる人々が(もちろんそんなふうに括られていない人たちも)

少なからず抱えている生きづらさなんだろう。

まわりとの「違い」に悩み、

でも、一人でもいいから、

それに気付き、理解してくれる人に出会ったときの

溢れるような喜びが

美しく描かれていた。


2人の「おおかみこども」―雨と雪—のお母さん(はな)の姿に感動した。

どうして育てていけばいいか分からない中でも

2人の思いを尊重し、

必死で周りから守り、あたたかく見守っているお母さんの愛情が

すごく伝わってきた。

声は宮崎あおい。本当に優しくて大好きだった。


里の人たちの優しさに感動した。

「おおかみ」の姿を誰にも見られないように山奥に引っ越した雨、雪、はな。

はなが野菜の栽培に苦戦しているのを見て、

ふもとに住んでいる人たち—特になんとかじいさん(名前忘れた)—が

言葉少なに畑作りから教えてあげる姿がなんとも優しい!

人との接触を避けるために山奥に引っ越したのに、

そこで生まれる温かな交流がはなを支える。

んー素敵な場面だった。


雨がオオカミとして生きる道を選び、

山へ向かう別れの場面。

涙を流して雨を見送るはなの姿が心に残った。

その後、

山奥で暮らすはなに届く

雨の遠吠え。これがたまらん。


他にも、

はなが「おおかみ人間」であるお父さんと出会い、

結ばれていく甘酸っぱい様子も好きだ(笑)

ずっと引き込まれてて、あっという間に時間が経った。

良い映画だったー!大満足。

『ねずみ女房』

「いまもっていない、何かが、ほしかった」めすねずみが

家の窓を通して、鳥かごに入れられた「ハト」との交流を通して

人間の家(ねずみにとって「全世界」)の「外」の世界に

触れていく物語。


【好きなところ】

①ねずみとハトの交流を通して描かれる「外」の世界の描写が本当に綺麗!

・「つゆって、何?」

つゆが何か、はとは話すことができませんでした。でも、つゆは、朝早く、草や葉の上で光っているもので、それを自分たちはのむのだと、はとはいいました。

つゆのことから、はとは、夜の森を思いだし、また、自分と、つれあいのめすばとが、朝の最初の光と同時に、しめった土をふみにおりていって、えさをついばみ、それからまた、ずっと向こうのべつの森へ飛んでいくことなどを思いだしました。はとは、そのことも、めすねずみに話しました。

他にも、

・めすねずみは、風の話をしてもらいたい、といいました。

….はとは、風が麦の上に波をえがきながら吹いていくようすや、木の種類によって、ちがう音をたてることや、雲を吹きとばして、空の遠くへ追いはらってしまうことなどを話しました。

うっとりする〜。んん〜綺麗な景色!


②語り手(人間の世界)から語られる小さなねずみの世界

・(ねずみの涙は、アワのたねのように見えます。そして、アワのたねより小さいたねを、わたしは知りません。)

・めすねずみには、自分の胸がドキドキ鳴っているのが聞こえました。その音は、腕時計のカチカチくらいの、小さなものでしたが、めすねずみには、大きく、あたりをさわがすほどの音に聞こえました。

ねずみの涙を「アワのたね」、

ねずみの胸のドキドキを「腕時計のカチカチくらい」と表現している。

人間の視点からねずみの小さな世界を描くことで

読み手はねずみの気持ちを切実に感じることができる。不思議。

物語から離れた視点にふいに立てるところが好き。


③めすねずみが獲得していく「他者への想像力」

あのはと、かごのなかにいちゃいけないんだ。あんなことするなんて、ウィルキンソンさんは、なさけなしだ。

と、めすねずみは、狭い鳥かごの中で弱っているはとを見て、鳥かごに閉じ込めている家主のウィルキンソンさんに腹を立てている。

そして、めすねずみは鳥かごに閉じ込められたハトの気持ちを「ねずみ流」に想像する。

床の上ではねまわれないなんて!巣から出たりはいったり、チーズをぬすみに食料戸棚にのぼってったりできないなんて!ちょろっと出ていって、ぱっとさらって、しっぽが、じんじんするほど、一目散ににげだす気持ちを味わえないなんて!……

この後ねずみは、「丘のことや、麦畑のことや、雲のことを話してくれるもの」がなくなることを寂しく感じながらも、

はとは、あそこにいなければいけなかったのです、あの木々や、庭や、森のなかに。

と悟り、鳥かごの留め金を外し、ハトを外に逃がしてやることになる。

飛び立っていくハトを見ながら、めすねずみはアワのたねほどの涙を落とし、

もう一度外を見て、そして星を見た。

あの星はとても遠くにあるもの――庭や森よりも遠い、その向こうの、一ばん遠い木よりも遠くにあるものだということに気がつきました。

「でも、わたしに見えないほど遠くはない。」と、めすねずみはいいました。…「…わたしには、それほどふしぎなものじゃない。だって、わたし、見たんだもの。はとに話してもらわなくても、わたし、自分で見たんだもの。わたし、自分の力で見ることができるんだわ。」

めすねずみは好奇心から外の世界のことを知りたいと願い

家の窓から、鳥かごのハトとの交流から色々なことを知ってきたのだけれど、

その過程で育まれた大切なものは「他者へ向かう想像力」なのではないかな、と思う。

たとえ自分が住んでいる世界にはいない生き物の気持ちであっても、

「わたしに見えないほど遠くはない。」ものとして、「自分の力で見ることができる」ものとして、

捉えられるようになったのではないかな!

間違った読みかもしれないけど、感想終わり。

『大どろぼうホッツェンプロッツ』

おばあさんの大切なコーヒーひきを盗んだ

大どろぼうホッツェンプロッツを

カスパールとゼッペルが

大活躍してとっつかまえるお話

以下、良かったところのメモ。

・それぞれのキャラクターの「おかしみ」

・「スリル」

大どろぼうと魔法使いは物語に「スリル」を与える怖い存在だけど、

それぞれ弱さ、おかしさを持ち合わせていて、

なぜか愛らしく感じてしまう。

スリルを抱きながらも、安心感の上に読み進めていくことができる。

・多視点から立体的に話が構築されている

別々の場所にいる登場人物が、

同じ時間の出来事をどう体験していたのか

視点を切り替えながら、

少し時間を巻き戻したところから語られている。

ある出来事が複数の視点から語られるのが秘密を解いていくようで面白い。

・展開のスピード感

どんどん場面が切り替わる。

読み手の関心事も次々と変わっていく。

読んでいて退屈しない。

・「帽子」の役割付け

カスパールとゼッペルが帽子を交換したことが

物語の重要な鍵になっていて巧み。

読み進めていて帽子の重要性が分かって満足。

とにかくずっとワクワクしてた。

こりゃー子どもたちが夢中になるわけだ。

物語の最後に

「ないしょの話ですが、やっとつかまえた大どろぼうは脱獄のチャンスをねらっています。『大どろぼうホッツェンプロッツふたたびあらわる』も、読んでください。」

と宣伝まで組み込みながらワクワクさせてくる。笑

くそぅ、気になる。笑